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  • 2017 Islanders | Okinawa Peace Art Exhibition Naha Shimin Gallery
    那覇市民ギャラリーにて、沖縄平和美術展「南の人」

メディア掲載

Concept

「南のひと」 松竹昇助さん (89)=竹富島=戦争の記億から

娘が3歳の頃から、竹富島の民具づくり教室 (NPOたきどぅん主催) に通って4年がたった。 講師の松竹昇肋さん (89) が面白く、 魅力的だから続けてこれたのだと思う。 民具づくりをしながら昇肋さんが、少年兵だったころの話をしてくれた。
「少年兵が泣く時も、 隠れてたばこを吸う時も必ず卜イレへ行ったよ。
泣く時はみんな『お母さん』と言って泣いていたよ」

昇助さんは、竹富島の国民学校を卒業後17歳ごろに日本軍に召集され、西表島祖納集落へ守備隊として送られた。終戦2カ月前だった。島では1カ月間の厳しい訓練を受け、その後は田んぼを耕すために飼育されていた牛の当番にまわされた。
途中日本軍から通信隊員として送り込まれた中尉の若い4人は恐ろしく冷酷で、1人がへまをすれば全体責任をとらされ、「歯を食いしばれ! 」と顎 (あご) が外れそうなくらい殴打したそうだ。
南方の最前線から帰って来た3小隊の班長は 「1人2個ずつもらう手榴弾のうち1個は、 いざという時のために自分で持っていろ」 と言ったそうだ。
いさという時とは、捕虜になることで、その前には自決しろという意味だった。

「班長が言ってたよ。最前線ではね、戦闘が始まったら銃口は敵に向かずに味方に向いた。 なぜなら前方に突き進めば敵に殺されてしまう。生き延びるには後ろで『進め!』と言っている人間を撃って逃げるしかなかった」

「僕は誰よりも臆病だったよ。でもね、兵隊帽をかぶったとたん死ぬことが全然怖くなくなった。不思議だね、今思うとどうかしている」

2017年6月 沖縄県八重山郡 竹富島
C・プリント
サイズ 25cm×25cm
フレームサイズ 43cmx53cm
撮影、文: 水野暁子